小学生の時は夏休みが近づくと、学校へ行かなくてもよいという開放感からうきうきした気分になっていました。昭和40年頃は、夏休みのラジオ体操も朝6時半から毎日近所の集会場のようなところで行っており体操が終わると上級生が作った竹のハンコでラジオ体操カレンダーに○を押してもらっていました。出席しなくても自分で勝手に竹印を作って押していた子もいました。昼になれば開放された学校のプールで毎日夕方まで真っ黒になって遊んでいました。今なら学校が絶対に許さないだろうと思います。夏休みで一番楽しみにしていたのは、隣町に住んでいた2歳年上のきれいな従姉妹と遊ぶことでした。母親同士が姉妹だったので自転車に乗ってよく行き来していました。私が小5のときには彼女はもう中学生でしたので、こちらがいくら淡い恋心があってもほとんど恋の対象にはしてくれません。彼女が、同級生の男の子がスポーツマンでかっこいい、などと話しだすと、とても落ち込んだものです。一緒に夕方山道を散歩しているときは、伊藤左千夫の野菊の墓を思い出してまるで自分たちのようだと勝手に想像していました。昼は二人で近くの川で泳いだり魚をとったり、夜になると伯母さんが出してくれたスイカを食べ、白黒のテレビを見ながら楽しく夜が更けていきました。まだそのころは伯母さんが二人の布団を同じ部屋に敷いて寝かせてくれたりしていました。
しかし彼女が中2になる頃には一緒に遊んでくれる事もなくなり、私の夏休みの楽しみはさみしく終わりました。